今西家。今井町に残る邸宅

今西家とは。今井町の中心的存在

奈良橿原を代表する観光スポットである今井町。古き良き江戸時代の町なみが広がる一大観光スポットです。ここは町並み全体が文化財としての価値があるとされる重要伝統的建造物群保存地区に登録されています。この今井町には1500の住宅の内、江戸時代に建てられたものが約500棟に上っています。

そのいくつかは重要文化財や県や市の指定文化財に登録されていますが、その中でも最大の存在が今回ご紹介する今西家です。今西家は、いわば今井町が商業都市として、また城塞都市として独立するきっかけともなった家です。

更に江戸時代においては、幕府から独自の自治制度を認められ、その自治体制を取り仕切る惣年寄り筆頭の家として幕末まで続いた家なのです。その存在から、現代に残る今西家も、住宅というよりは堀を備えた半分城郭のような姿をしています。今回は今井町の最大の見所スポットである今西家をご紹介します。

今西家

今井町とは。「陸の今井」といわれる商業城塞都市

さて、ここで今西家について触れる前に、今井町についてご紹介しましょう。今井町は奈良橿原の中心に位置する、昔ながらの町並みです。その大きさは南北310メートル、東西600メートルの長方形の町で、その内部には1500棟もの昔ながらの日本家屋が登場します。

この今井町は、実は歴史上の有名な人物たちが数多く訪れた町でもあるのです。もともと今井町が本格的に発展したのは戦国時代といわれています。当時は堺の町が一大交易都市として知られていましたが、今井町は「海の堺」「陸の今井」と称されるほどの二大双璧だった町で、数多くの物産が集まる町でもありました。

また、この今井町の発展の切っ掛けともなったのが、今回ご紹介する今西家です。戦国時代には戦国大名以外の一大勢力として、一向一揆が存在しますが、この地に一向一揆を持ち込み、城塞都市として本格的に整えたのが、今西家の一族である十市氏と河合氏です。

当時、織田信長の勢力が近畿地方に進出しており、信長に対抗するために一向宗を引き入れ戦いました。結局、織田信長の圧倒的な勢力には勝てず、信長に降伏しますが、経済政策を重要視する信長からは自治権を認められ、その傘下に入ります。

その後江戸時代い入ると、武家であった今西家や河合家などは、商家として成功し、江戸時代を通じて商業都市として栄えるのです。現在今井町に残るさまざまな家は、江戸時代から幕末にかけて米屋や金物屋、酒造業、金融業などを営み独立自尊の町として発展を遂げまし。

今井町

今西家の成り立ち 信長包囲網から石山合戦まで

今西家はもともと大和の有力国人である十市氏です。戦国時代には豪族同士の争いの上、新勢力である織田家の勢いを借りた松永久秀など、数多くの戦いが起こります。十市氏の十市勝遠が筒井順慶の勢力に圧迫され今井町に亡命し、そこに一族である河合清長が家臣とともにこの地に移住したのが始まりとされています。

その後、今西家は、同じ亡命してきた豪族である河瀬新左エ門と共に当時巨大な勢力をほこっていた本願寺を今井町に引き入れます。これにより今井町は本願寺の今井御坊が建てられた城塞都市、門前町として発展するのです。

当時は本願寺を中心にした信長包囲網が作られており、今井町も本願寺側として信長包囲網に参加しました。また、信長と本願寺との石山合戦の際には、堀や土塁で町を更なる城郭化し、要塞都市として対立したのです。町の周囲の堀は深さ2メートル、幅5メートルから7メートルという巨大なもので、当時は今西家がその城郭の中心として築かれました。

今西家

今西家と織田信長のエピソード

戦国時代で最も有名な武将と言えば織田信長です。尾張の豪族から勢力を伸ばし、天下統一を目前にして、配下の明智光秀に本能寺で討たれた劇的なエピソードはあまりにも有名です。また織田信長は冷酷無比であると同時に優れた時代性と経済性を持ったことでもしられています。

例えば、足利義昭を担いで近畿地方を平定した際に、義昭から副将軍という褒美を断り、代わりに堺と大津に代官を求め、そこから運上金をとる権利だけもらったことは、農業や土地が基準であった当時としては、珍しい先見性と言われています。

そんな織田信長は、堺と大津以外に目を付けたのがこの今井町だったのです。信長は今井町との戦いに勝利した後は、朱印状を付与しこの地の自治権を認めました。その際、今西家の南側に本陣を構えたとされています。

またその際、エピソードが残されており、織田信長は今西家の巨大な姿に感歎し「やつむね」と唱えて本陣を後にしたと資料に残されているのです。今西家はそれ以降、土間を白州にみたててお裁きなどを行うことになります。

今西家住宅の見所

今西家の最大の見所がその巨大な住宅です。織田信長が評した「やつむね」とは八ツ棟のことで日本の建築手法である八棟造りを指すことばです。これは建物が八棟あるわけではなく、たくさんの別棟の建物が複雑に配置されてあるさまを象徴する言葉で、破風を備えた豪奢な建物のことをいいます。

今西家では、そんな豪奢な建物の外観を町歩きの途中で見ることができます。また、今西家は城塞都市の中心として、戦国時代には濠などが設けられていましたが、現在も当時のものではありませんが堀が設けられ、今井町の中心的存在としてその雄大な姿を目の当たりにできます。

今西家

今西家住宅の構造

今西家住宅は、住宅としては土間が平面形式の半分を占有しています。この土間は、お白州として江戸時代利用されてきた場所です。また、陣屋としても設計された建物です。建物は2階建ての入母屋造りで、延べ面積が326㎡の巨大なものです。部屋の数は1階が2列6室の間取りで、2階には座敷が2室あります。内部は予約しなければ見ることが出来ませんので、事前に予約が必要です。

今西家住宅へのアクセスと利用案内

今西家住宅は今井町の一番西にあります。今井町は、最寄り駅が近鉄八木西口駅から徒歩5分、JR畝傍駅から徒歩8分ほどの場所にあります。町の東側が近鉄八木西口駅に近いため、駅からは、歩いて15分ほどの場所に今西家はあります。今井町の散策の過程で訪れることをおススメします。

今井町は奈良橿原観光の中心であり、カンデオホテルズ奈良橿原がある橿原市役所からは歩いて8分ほどでいくことが可能です。また奈良観光の中心部である奈良駅から今井町までは電車で約40分ほど、大阪からも50分ほどで行くことが可能です。

今西家住宅の利用案内

所在地:〒634-0812奈良県橿原市今井町3-9-25
TEL:0744-25-3388
営業時期:10時~ 17時 要予約(16時30分までに入館)
休館日:月曜日 (祝日の場合次の平日)

今西家の周辺おススメ観光スポット

今西家の周辺には今井町ならではのおススメ周辺観光スポットが多数登場します。ここでは冒頭でご紹介した通り、重要伝統的建造物群保存地区の町なみとして数多くの日本家屋が登場するのです。ここではその代表的な日本家屋と今井町周辺のおススメ観光スポットをご紹介します。

今井町に残る家たち

今井町には現在1500棟もの建物が残されていますが、そのうちの三分の一、約500棟が伝統的な建物として残されています。そのうち国の重要文化財として登録されているものが9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件です。

今西家は国の重要文化財に登録されていますが、同じく登録されている住宅が豊田家、上田家、音村家、高木家、中橋家、旧米谷家、河合家の7軒です。そのいずれも江戸時代から幕末にかけて商人として活躍した一家で、豪商として知られた存在もいます。

例えば豊田家は、幕末には越前福井藩の藩主として四賢候にも数えられた松平春嶽に多額の貸付を行い、同時に福井藩の重臣待遇にまでなった存在です。また豊田家には、今井町出身で堺の豪商にまで上り詰めた今井宗久ゆかりの茶室が残されています。

上田家は、「壺屋」という屋号のもと、今西家とともに今井町の惣年寄りを務めた家として知られています。この家には惣年寄りの旗も残されており、今西家と同じく当主であった上田新七郎は武家の出身です。音村家も商家として成功した家で、「細九」という屋号で金物屋を営んでいました。

高木家は、醤油業を営んでいた豪商です。中橋家は、屋号を「米彦」といい、米屋として今井町で成功しました。こちらは江戸時代には南町組頭を務めていた家になります。旧米谷家は、「米忠」の屋号で金具商や肥料商を営んでいました。河合家は、屋号を「上品寺屋」といい、酒造業で栄えました。

今井町

称念寺。本願寺の今井御坊

歴史の部分でもご紹介しましたが、今井町は戦国時代に本願寺になることで、大きな発展を遂げました。称念寺はその際の拠点、御坊が立った場所でもあるのです。今井町はこの今井御坊であった称念寺を中心に城塞都市として発展し、織田信長にも抗戦するほどの勢力に成長したのです。また称念寺は、明治時代に入り、明治天皇が橿原の地に行幸した際に宿舎ともなった場所です。この称念寺も重用文化財として目の当たりにできます。

弥念寺

まとめ

今西家住宅は今井町を代表する観光スポットとして、巨大な日本家屋を目の当たりにできます。城塞都市として、また経済都市としての今井町の惣年寄りを務め、その歴史と共に歩んできた家は一見の価値ありです。またその周辺には、豊田家や上田家、旧米田家、河合家といったさまざまな重要文化財の住宅も残されており、今井町の散策が楽しめます。