
愛媛新居浜の別子銅山東平(とうなる)ゾーン
喜ぶべきことに、明治日本の産業革命遺産として、九州や山口を中心とした産業遺産が世界遺産に登録されました。その多くが、明治以降日本の近代工業化を支えた場所として知られています。分野としては製鉄や鉄鋼、石炭産業などで、産業遺産としては石見銀山と富岡製糸場につづくものとして、新たに工業や産業施設が観光スポットとして認識され始めています。
今回の九州や山口、伊豆韮山などを含めた「明治日本の産業革命遺産」は八つのエリア23のスポットから構成されていますが、日本には各地に数多くの隠れた産業遺産が存在します。本日ご紹介するマイントピア別子もそのうちの一つ。
愛媛、新居浜を代表する産業遺産と言えるでしょう。マイントピア別子は、かつてこの地で280年続いた別子銅山を観光スポットとしてテーマパーク化したもの。銅山観光や鉱山鉄道、新居浜の渓谷の絶景が堪能できる端出場ゾーンと、今回ご紹介する東平(とうなる)ゾーンとで構成されます。
別子銅山が開山したのは今から遡ること、約325年、1690年に発見され、1973年まで住友家によって運営されていました。特に東平(とうなる)地区は、大正時代の1916年から昭和の1930年まで鉱山採掘の本部が置かれていた重要な地域。かつてそこでは鉱業に従事する人たちが家族と一緒に生活し、小中学校まで作って一つの街を形成していました。
ちなみに街としては昭和43年1968年まで存在していました。今ではマイントピア別子の東平(とうなる)ゾーンとして、その史跡や資料館を見ることができます。
別子銅山、マイントピア別子・東平(とうなる)ゾーンへのアクセス
マイントピア別子の東平ゾーン(とうなる)は、銅山観光や鉱山鉄道がある端出場ゾーンから車で35分ほど離れた場所にあります。途中から険しい山道を上り標高750メートルの山中まで向かいます。基本的には道の駅もついている端出場ゾーンを見たあと、車で移動して向かう方法がいいでしょう。
ちなみに、東平(とうなる)ゾーンへ行く山道はかなり険しいため、端出場ゾーンからシャトルバスも出ているのでそちらを利用するという手段もあります。カンデオホテルズ松山大街道からはまでは車で1時間45分ほどで行くことができます。周辺の新居浜観光とセットで訪れることをオススメします。
東洋のマチュピチュ東平ゾーンはこちらです
標高750メートルの鉱山史跡「東洋のマチュピチュ」
マイントピア別子の東平(とうなる)ゾーンは、標高750メートルの山中にあることや、その残された貯鉱庫跡の雰囲気や、かつて街として栄えたという歴史などから「東洋のマチュピチュ」という異名で呼ばれています。
東平(とうなる)ゾーンは、マチュピチュのような標高4400メートルほどの高地ではありませんが、歩いていくことすら困難な山中にあり、実際に行ってみるとこんな場所に社宅や小学校、劇場まであったとは信じられないほど。ここではかつての採掘本部を忍ばせるように、坑道や鉱物輸送用の鉄道跡、さらには貯鉱庫跡などが残されており、山中に不思議な雰囲気が漂う観光スポットとして見ることができます。
中でも注目のスポットは、産業遺産として特徴づけている東平貯鉱庫跡。花岡岩づくりの貯蔵庫は、明治時代に築かれたとされる貴重な建物で、鉱石の貯蔵庫として機能していました。この鉱石貯蔵庫の景色と山岳地帯の風景が織り成す姿は、まさに「東洋のマチュピチュ」と呼ぶにふさわしいものになります。
広大な敷地に残る産業史跡と東平(とうなる)記念館
ここマイントピア別子の東平(とうなる)ゾーンでは、上記でご紹介した鉱石の貯蔵庫以外にも見所がたくさんあります。かつての旧保安本部は、現在はマイン工房として利用され、かつて鉱石の荷揚げに使用されていた旧インクラインは、220段にもおよぶ長大な階段に生まれ変わっています。
また実際の坑道と鉱山運搬用のトロッコが残される小マンプや、1795メートルにもおよぶ第三通洞など、かつての別子銅山の興隆を忍ばせる産業史跡が残されています。さらには東平(とうなる)歴史資料館では、かつての鉱山都市としての歴史を写真でみることができる上、銅山から採掘された銅によって生成されたさまざまなプロダクトの展示がされています。
実際の製品として見てみると、銅山採掘が私たちの生活に大きな影響を与えてくれたことがわかります。
まとめ 銅山の歴史がより一層わかる
マイントピア別子・東平(とうなる)ゾーンは、端出場ゾーンとは違い、銅山の採掘本部、貯蔵庫としての歴史を、現存する産業遺産や、展示製品などからみることができます。特に銅山の内部とは違い、東平(とうなる)ゾーンは、建造物の多くから近代産業を構成していた雰囲気が伝わります。距離は少し離れていますが、端出場ゾーンとセットで観光されることをオススメします。